3年ほど前に、僕は大学卒業後から勤めていた会社を辞めた。理由は特になかった。今ならその時の気持ちをなんとなく説明できるような気もするのだが、当時はただ「息苦しかった」。そんな漠然とした一言でしか表現できなかった。
 会社を辞めた僕はわずかばかりの蓄えと雀の涙のような退職金を手に入れ、久しぶりの開放感を味わっていた。しかし何日か経ち、映画館や図書館に行って怠惰な時間を過ごすのにも飽きた僕は、普段足を踏み入れない駅向こうの寂れてしまった歓楽街まで足を伸ばした。ちょっとした冒険心てやつだ。
 もとより酒が嫌いではない僕は一軒のスナックに足を踏み入れた。ママの名前が店名になっているような、どこにでもある店だった。しかし僕にとっては上司のお供で行ったことは何度かあるものの、たった独りでそういう店に入るのはまったく初めての経験だった。


 その店で僕はその男と出会った。


 時間を持て余していた僕がその店の常連になったのはすぐのことだった。ママのきっぷのよさも気に入ったし、なによりバイトのリカがいたからだ。僕は毎日その店に通い、カウンターの端っこで独り座って薄い水割りをすすり、常連たちの馬鹿話に微笑みを返した。自分から話に加わることはなかったが。
 そんな常連の中にその男がいた。彼は最近この町にふらりとやって来て、僕よりちょっと前からこの店に通うようになったらしい。見るからに労務者風の、お世辞にも「清潔」とは呼べないような男だった。他の常連達の間では、「全国のドヤ街を回っているらしい」「原発ジプシー」などといったものから果ては「前科持ち」まで、いろんな噂が飛び交っていた。僕にはそれらの話がただの噂話なのかそれとも真実なのか、確かめる術はなかった。ただ一つ言える真実があるとすれば、彼は「大ボラ吹き」だった。
 いわく「俺は乗馬が得意だ」。いわく「剣道と弓道の有段者だ」。etc.etc.・・・。「乗馬が得意」という話は、いつのまにか「馬の曲乗りが得意」、そして「流鏑馬が得意」と変わっていった。他の常連たちは赤ら顔でにやにや笑いながら、男の話を取り合おうとはしなかった。もちろん僕だって、まったく信用していなかった。だって目の前にいるのは白髪交じりのぼさぼさ頭に無精ひげ、前歯を何本かなくしており、いつも薄汚れた作業着で酒を飲んでる小男なのだ。こんな男に「乗馬」なんてハイソな趣味があるわけない。僕は常連たちと一緒になって、男のホラ話にげらげら笑った。しかし男はそんな僕たちに何か言い返すわけでもなく、今にも泣き顔になりそうな笑顔で「ホントなんだよ」とつぶやいていた。


 男が僕に話しかけてきたのは、いつものように僕がカウンターの端っこで独り水割りをすすっている時だった。男と一対一で話すのはそれが初めてだった。男は僕より先に店に来ており、僕が来たときにはもうすでに顔が真っ赤になっていた。他の常連たちはまだ集まっていなかった。男は酒臭い息を僕に吹きかけながらこう切り出した。


「俺の話、全部嘘だと思ってるだろ?」


 突然の問いかけに僕は面食らって言葉を濁した。
「いや、別に、そんなことないですよ」
 男はにやりと笑った。
「まあいいや。そんなことよりアンちゃんに本当のこと教えてやるよ」
 男の言う「本当のこと」がひっかかった。「本当のこと」ってなんだろう?僕は秘かに期待していたのだ。
「・・・なんですか?」
 男はグラスのビールを一息で飲み干し、そして話し始めた。


「俺はな、昔大仏と闘ったことがあるんだ」


「・・・は?」
「大仏だよ大仏。アンちゃん知らないの?」
「い、いや、知ってますけど・・・」
 僕は内心「やっぱりホラ話が始まったか」と辟易していた。しかしひまをつぶすにはいい機会だと思い、男が話すに任せることにした。
「あれは俺がまだハタチくらいの頃のことだがな」
「はあ・・・」
「惚れたオンナが事故に遭って植物人間になっちゃったんだよ」
「・・・ええ」
「でな、ある晩俺が寝てたら夢ん中に神様が出てきて言うんだよ」
「はい・・・」
「『大仏と闘って、勝ったらあなたの恋人を目覚めさせてあげる』ってさ」

 やっぱりどこをどう取ってもホラ話だった。もうこの男にはつきあってられない。なぜか突然怒りがこみあげた僕は、急に用事を思い出したふりをして席を立った。男は最後まで話し終えることができずか、残念そうな顔をしながらもこう聞いてきた。
「あ、そういやアンちゃん、名前は?」
「山田です」
 適当な名前を言った。
「そうか・・・。俺は湾里清蔵って言うんだ」
 もう男の名前などには興味はなかった。僕は勘定を支払い、店のドアを開けた。ドアが閉まる寸前振り返ってみると、男のあの今にも泣き顔になりそうな笑顔が目に入った。そしていつものように「ホントなんだよ」と呟いていた。声は聞こえなかったけれど。


 その出来事からすぐの話だ。僕は大学時代の先輩の伝手で新しい職に就いた。新しい生活が始まり毎日忙しくなり、結局あれっきりあの店には行っていない。しかし、なぜだろう、今でもあの店のことを時折思い出す。リカは今でもバイトしているのだろうか?常連たちは相も変わらず馬鹿話を繰り広げているのだろうか。そして、男は今でもあの店で毎晩ホラ話をしゃべり、そして泣きそうな笑顔で「ホントなんだよ」と呟いているのだろうか。